
東欧(チェコ、スロヴァキア、ハンガリー、オーストリア)
1998年5月3日~12日
今度は東欧へ
家族も友人も一緒に行く人は誰もいないのでパックツアーに申し込む。最初は小さい島国マルタ共和国に行こうと思い、JTBの5月5日出発に申し込むも、私のほか1人が申し込んだだけなので不催行になった。東欧はどうかと調べると、5月3日出発を日本旅行が企画している。連絡して参加することにした。
イギリス、アイルランドには行ったことがあるがヨーロッパ大陸は初めて。
JALでパリへ行き、チェコ航空でプラハ。プラハからはバスでスロヴァキアのブラチスラヴァ、ブダペスト、ウィーンと周り、オーストリア航空でフランクフルトへ行き、ここからJALで成田へ戻る。
添乗員を別にすると、女性だけのカップルが5組10人、夫婦が12組24人、一人で参加したのは私だけで合計35人。
5月3日 プラハ到着
予定通りパリのシャルルドゴール空港に到着。現地時間で17:00。飛行機にリフト付きのバスが竪付け(横付けではない)している。満員になったところでステップを引っ込め、リフトを下げターミナルへと走っていく。
ターミナルに着くとまたリフトを上げて車全体を上げ、ステップを前に出しターミナルとの隙間を埋め、乗客がターミナルへと移る。出入り口は運転手のすぐ横、バスの前面だ。こういうバスは初めてだ。シャルルはチャールズのフランス語読み、カレルもチャールズのチェコ語読みだそうだ。こういうことも初めて知った。
チェコ航空の出発が遅れホテルに着いたのは23:30。途中プラハの町で目に付いた看板はソニー、リコー。サムソン(三星)、デイウ(大宇)の韓国系も目立っていた。韓国は今通貨危機で大騒ぎをしているが、いずれ安くなったウォンをひっさげて、今までよりも世界にどんどん出てくるだろう。
ホテル ドン・ジョバンニは街の中心から離れているせいか、部屋からの眺めは良くない。
5月4日 ホテル近辺
3:30に一度目が覚める。再度寝るも4:30には目覚めあとは眠れない。風呂に入ったり、荷物の整理をしたり、テレビを見たりでようやく朝食の6:30。朝食後ホテルの周りを散歩する。ホテルのすぐ横はバスターミナル、路面電車の停留所、地下鉄の駅と交通の便は非常にいい。バスも路面電車も大体2両編成。日本の場合は地下鉄の完成とともに路面電車は消えていったが、こちらではまだ多くの人が利用している。ほとんどの人がまだコートを着ている。

ホテル ドン・ジョバンニと路面電車
市内観光
9:00出発でプラハ城へ向う。日本語を話すチェコ女性クララさんがガイドとしてきたが皮のロングコートを着ている。曇り、風もあって寒い。私はシャツの上にジャンパーであったが出発前にセーターを取りに行き正解だった。プラハ城、大聖堂をまわって11:30に昼食。城のすぐそばのレストラン、ドスカ。前菜はきゅうりのスライスにツナが乗ったもの。メインはローストポーク蒸しパン付き。味はいまいち。ビールを2杯。
午後はカレル橋、旧市街と一日中歩きづめ。カレル橋は歩行者天国になっていて土産物屋、似顔絵描きなど出ていて一杯の人だ。また旧市街のいたる所でコンサートをやるらしく、あちこちでチラシを配っている。芸術に縁のない私には無用だが、古い教会でやるコンサートなど好きな人にはこたえられないだろう。
クララさんに“エジンバラでは旧市街が300年前、新市街が100年前に建てられ今でも人が住んでいる。”と言うと、“ふん”と笑われた。
“プラハの旧市街は600年以上前に建てられたものです。”と。
“由緒ありげな建物に人が住んでいますけど、あの建物はなんという建物ですかと聞く人がいますが、ただの家ですと答えるしかないんです。”とも言う。たくさんの人が昔ながらの石造りの古い建物に住んでいる。
また“プラハは第2次世界大戦のときに爆撃を受けませんでした。米軍の誤爆が1回あっただけです。”と。
街並みは確かに古く美しい。近代的な建物もあるが古い街並みにマッチしたデザインになっている。
15:00にからくり時計を見て、ボヘミヤガラスの土産物屋に連れて行かれて、15:30にようやくバスに乗りホテルには16:00到着。
重いカメラを担ぎ歩きづめだったので、マッサージをフロントに頼むが今日は月曜日で休みとのこと。明日の21:30以降でなければ予約は受けられないと言う。これでは夜遊びに忙しい私には無理。

古い街並みの中の近代的建物
12階にサウナがあるというので出かけるが16:00オープンのはずなのに開いていない。30分たっても開かない。あきらめて部屋の風呂をぬるめにして足をマッサージする。
夕食
夕食はウ・フレク。ウ・フレクは500年前からのビールの醸造元でレストランも経営している。前菜はハムと野菜、チーズがギザギザにきれいに切られて乗っている。チーズを半分に切って口に入れるが驚いた。バターだった。バターをかたまりで口に入れると本当にまずい。吐き出すことも出来ずに飲み込んだ。
アコーデオンとチューバの演奏が始まった。兵隊姿で演奏している。我々のチップは添乗員の波多江さんがまとめて渡してあるが、結構楽しめたので私も現地の人のまねをして、ポケットの小銭をチューバの吹き出し口からチャリンと入れた。全部でも50コルナ(K1≒¥4)もないと思ったが、これは失敗だった。こちらではトイレはチップ制だ。掃除のおばさんが頑張っていてチップを渡さないと出してくれない。K5でいいのだが小銭は全てチューバの中に入れてしまったのでK20紙幣を渡す羽目になってしまった。
カジノはJTBのガイドブックに出ていたヒルトンホテルに行くつもりだったが、波多江さんが確認してくれたところ今はやっていないという。そしてプラハのガイドブックをコンシェルジュから貰ってきてくれた。カジノのページには12軒のカジノが載っているが、“コンシェルジュの話では確実に今営業しているのは2軒だけだそうです。”という情報も取ってきてくれた。
タクシー
クララ女子が“プラハのタクシーの80%は泥棒です。”と言っていたが本当だ。ウ・フレクの前の道路に待機していたタクシーにカジノ アドミラル・ボヘミヤまでいくらかかるか聞いたところK400~500という答えだったが、着いたときにはメーターはK1,450を表示していた。“さっき4~500と言っただろう。”と言ってもメーターがこうなっているから1,450払えと言う。1,000にしろと言っても頑として1,450から譲らない。メーターの上方にラジオの周波数がデジタルで表示されていたので“本当のメーターはそっちだろう。”とからかうと、これはラジオだとむきになって色々な局を押している。
交渉しているうちにもメーターは動いてだんだん高くなってきている。
“車が停まっているのにおかしいじゃないか、1,000。”と言うと、ようやく受け取って戻って行った。メーターに細工がしてあるのは明白だ。
カジノからホテルへの戻りは来るときより遠かったがK338。ホテルなどに待機しているタクシーはまともだ。
帰りのJALでスチュワーデスが
“どちらまで行かれたんですか。”と聞くから、
“チェコ、スロヴァキア、ハンガリー、オーストリアを周って来ました。”と答えると、
“わー、いいですね。私も行きたいんですよ。”
“でも職業柄いろんな所に行っているんじゃないですか。”
“ええ、でもJALの飛んでいる所だけなんですよ。JALの飛んでいない所へはなかなか行けないですよ。あとでお話を伺えますか。”
“いいですよ。あなたの手があいたら仲良くお話しましょう。”と答えたが、
ビール、水割り2杯飲んで夕食を食べたら眠くなった。幸いすいていて4人掛けの椅子を独占できていたので肘掛を全部上げ横になって寝てしまった。
目が覚めたのは朝食のアナウンスのときだった。彼女はまた忙しく働いている。
しまった、仲良くしそこなった。次に彼女と話したのは着陸してからの2,3分。
“仕事が一段落したときにお客様のところに行ったのですが、よく寝ていらっしゃったものですから、ツアーリーダーの方にお話を伺いました。よく寝ていらっしゃいますよと申しましたら大笑いしていましたよ。”
プラハでのぼったくりタクシーの話をすると、
“ギリシャでもそうでした。景色に見とれていたりすると手でパッとメーターを上げてしまうんです。”
どこの国でも同じようだ。成田でも白タクに注意としょっちゅう放送している。でも観光産業に力を入れるなら正規のタクシーくらい安心して乗れるようにしてもらわないと。
カジノ アドミラル・ボヘミヤ
このカジノには結構客が入っていた。カジノそのものはあまり広くなく、スロットマシーンが2~30台、ルーレット、ブラックジャック、ポーカー(よく確認しなかったがバカラではなくポーカーだと思う)。ルーレットは10テーブル全部稼動していたが、ブラックジャックとポーカーは2台ずつ客がいてあと2台ずつは空いていた。ブラックジャックの椅子が一杯だったのでルーレットで時間をつぶす。当然ヨーロッパ式で0のみ。00はない。20分ほどでブラックジャックに移る。
いままでやっていたブラックジャックとはルールが異なる。ブラックジャックが出ると賭け金の2倍戻ってくる。(他は1.5倍)ダブルを宣言しても何枚でも引ける。(他は1枚のみ)ファイブカードといって5枚のカードで21以下だったら1.5倍の配当をくれる。これとダブルとを組み合わせて、AAと来たらスプリットせずにダブルにして、また小さい数が来たらトリプルで賭け金を3倍にすることが出来る。こんなルールがあるなんて知らなくてAAと来たら今までと同じようにスプリットしていた。隣の女性がダブル、トリプルとしたほうが良いと教えてくれた。
次にAAと来たときにダブルにした。その次のカードは2だったのでトリプルを宣言。次に5が来て合計9。もうあとに何が来ても21以下なのでファイブカード成立だ。最初の賭け金の4.5倍が返ってきた。でも21オーバーすると最初の賭け金の3倍がパー。他のカジノでもファイブカードがある所はあるがダブル、トリプルは認めていない。通常の流れの中でのファイブカードだ。隣の女性は常にファイブカードを狙っている。2,3と来てもファイブカードを狙ってくる。
ずいぶんと客に有利なルールに見えるがタイ(引き分け)だとディーラーの勝ちとなり賭けたポーカーチップは取られてしまう。タイで取られたのが効いてK10,000の負け。
5月5日
やはり早く目が覚める。朝食まで時間があるので洗濯をする。自分で洗濯など何年ぶりだろうか。ハンカチ、靴下、パンツを洗う。丸首シャツとワイシャツはランドリーに出す。
9:15出発でバスで1時間ほどの古城ミッシェル・シュテンブルク城へ行く。バスは10分も走ると郊外へ出る。高速道路(無料)の周りは菜の花畑が目立つ程度であとはどうということなし。
13:30頃旧市街の市民会館のレストランで昼食。この建物も由緒ありそう。ガイドブックを紐解くと、この場所には王宮があったが17世紀の大火事で焼け、その後紆余曲折があったが1911年に今の市民会館が出来たとある。まだ100年も経っていないんだ。
チキンを主体とした料理。昨日はビールだったので今日はワイン。同席してくれたのは三菱信託銀行勤務の若い女性2人。話は低金利や貸し渋り、漫画のなにわ金融道にまでおよび面白かった。3人でワイン2本(大半は私)飲んで酔っ払ってしまった。
このあと自由行動であったがホテルに戻る人はバスで送ってくれるというので乗っていった。ホテルに戻ったのは私のほか70代の夫婦。昨日のプラハ城、旧市街の徒歩観光で参ってしまったと言っていた。
カジノ 第2回目
15:00頃ホテルに戻り休憩。その後着替えて出動。クララ女史に一番大きなカジノはどこですかと聞いた返事は、“ホテル アンバサダーのカジノが大きく24時間営業しています。”
行ってみると小さいネオン表示があるが入り口が分からない。ホテルの人に聞いてもあっちだこっちだと埒が明かない。閉鎖しているのだろうと判断してホリディーインに向う。ホテル ドン・ジョバンニのコンシェルジュが言っていた2軒は昨日のアドミラルとホリディーインだ。
ホリディーインのカジノはアドミラルよりもっと小さく全テーブルを合わせても6台しかない。びっくりしたのはアドミラルとルールが違うことだ。ファイブカード ルールを聞くと、
“ファイブカード?何それ?”という返事。同じ都市でタクシーで20分くらいの距離なのに。
オーストラリアは広い国だがルールはどこも同じだと思う。客は私を含め3人しかいない。早々に引き上げアドミラルに移るも駄目でUS$500の負け。
5月6日 ブラチスラヴァ
6:00モーニングコールの7:30出発でスロヴァキアのブラチスラヴァへ向う。途中チェコの第2の都市ブルノで休憩、散歩。トイレを借りたインターナショナル ホテルにもカジノの看板あり。時間が早いせいか開いてはいない。野菜の青空市場にも行く。オレンジなどはスペイン産が多い。私も1袋買ってみる。8個入りでK20。1個10円くらいか。
国境でチェココルナからスロヴァキアコルナへ両替。ドルへの換算レートはスロヴァキアコルナのほうが少し安いらしいが、私たちにとっては両コルナとも約4円。
ブラチスラヴァへは13:30頃到着ですぐに昼食。ワイン倉庫を改装した窓のないレストラン。食事は肉が牛、豚、鳥と替わっても同じようで飽きてきた。食後マリア・テレジアが愛したというブラチスラヴァ城へ行くがパッとした雰囲気はない。良く話を聞くと、マリア・テレジアが建てた城は息子の代に火事で焼け、今残っているのは兵舎だったものだそうだ。
ホテル ダニューベに着いたのは16:00頃。皆は市内観光に出かけたが、私はプラハの旧市街ほどではないと考え、バスから見かけたカジノのあるホテル フォーラムへ行くことにする。スロヴァキアのガイドのベアーさんが“ここから400m行った左側にもカジノがあります。”と言うので歩いて行ってみる。場所はすぐにわかったがまだオープンしていなかった。大通りから路地をちょっと入ったところに入り口があり、明るい雰囲気ではない。
フォーラム カジノ
フォーラムの方向へ感で歩いていくが分からなくなり2度道を聞く。ダニューベから20分ほどで到着。
細かいルールは忘れたがやはり少し異なる。覚えているのは女性ディーラーが美人ぞろいだったこと。なかでもクロークのエヴァという女性が抜群の美人だったことだ。日本語では恥ずかしくてとても言えないが“I've never seen such a beautiful girl before.”なんて口走っていた。(でもこれは一度言ってみたくて丸暗記していたフレーズなんだよね。)街を歩いていてもブラチスラヴァには美人が多い。波多江さんも“皆さんそうおっしゃいますね。”と言う。ウィーンには少ないというより殆どいない。
夕食の集合時間が19:30なので19:00には終わりにする。少し勝ったのでUSドルで欲しいと言うと、“貴方が両替した$200はUSドルで渡すが残りは駄目だ。”と言って、$200とK14,000をくれた。コルナを4倍すると¥56,000。プラハの損の半分は取り返した勘定になる。
ホテルに戻ってからお札をよく見るとどうもおかしい。国境で両替したお札にはスロヴァキアと印刷されているがこれにはない。シリングと書いてある。どうもオーストリアのお札のようだ。
波多江さんに見せるとやはりそうだと言う。オーストリアシリングATS1≒¥10なので¥140,000の儲けだったのだ。そういえば最初にUS$200両替したときにずいぶんと少ないなあと思いはした。
夕食はホテル前のやはり酒造レストラン。白身魚のフライとジャガイモを茹でたもの。今回まわるのは海のない国ばかりなのでシーフードは全く期待していないがフライはまあまあ。でも野菜が少ない。今回のジャガイモは量が多いが葉っぱが少ない。前菜にはやはりバターが乗っていた。(前菜といっても菜は少なくハムばかり。)バスケットに入っているパン用なのだろうが紛らわしい。
“14万円も勝ったのだからもう行かないほうがいいよ。”とグループの1人は言う。
“いや、勝つときに勝っておかないと。”とまたのこのこと出かける。
先ほど勝ったときのディーラーは誰もいず結局ATS4,000の負け。
ここのカジノも小さくバカラかポーカーのテーブルが1台、ブラックジャックのテーブルが5台、ルーレットが4台。
夕食前の時には客は6人しかいなかった。今はもう少し多い。今回の旅行では唯一ここだけがフリードリンクだった。
このフォーラムに待機しているタクシーは全てベンツ。運転手に
“車がベンツだから高いんじゃないか。”と聞いたら、
“ホテルの車だから安いよ。”と言う。
宿舎のダニューベまで80。最初のときはコルナかと思っていたから、¥320か安いなあ、と思いチップ込みで100渡した。オーストリアシリングにしても¥1,000だからまだ安いと思う。カジノのポーカーチップにもよく見ると数字の上に小さくATSと書いてある。地図で見るとブラチスラヴァはオーストリアの国境近くにあり、ウィーンまで車で1時間もかかりそうにない。
“どこが一番よかったですか。”と聞かれたら、“ブラチスラヴァ”と答えるだろう。たった1泊だったけれど、歩いた時間も20分程度だったけれど、美人は多いしカジノで勝ったから。
ハンガリー入国
ブラチスラヴァからハンガリーのブダペストへ向う。ガイドはハンガリー人のブダイさんという男性。
チェコとスロヴァキアはビザが必要だったがハンガリーは不要。国境でも係員がバスに乗り込んで来てパスポートを見るだけ。スタンプも押さない。何人かの人は頼んでスタンプを押してもらっていた。国境の両替所でATS1,000だけ両替する。ハンガリーフォリントで15,000ちょっと。
ハンガリーに入国してからはドナウ川沿いを走り、要塞跡やセンテンドレの街を観光。観光名所では当然ながらいたるところに土産物屋が出ている。目立つのはやはりハンガリー刺繍。
昼食は要塞跡そばのシラリというレストラン。七面鳥がメイン。ブダイさんは“ハンガリーではいつも食前酒として果実酒を飲みます。”と言ってお酒を飲んでいる。私もまねをして杏の果実酒を1杯。いわゆるシングルグラスで出てくる。アルコール分は40%ほど。ちびりちびりと飲む。気のせいか食欲がわいてくる。ブダイさんは果実酒のあとにビールを大ジョッキで飲んで顔を真っ赤にしている。だいぶ酒好きなようだ。
トラバント
センテンドレの街でトラバントを見つける。東ドイツで作られ、一時期ボール紙でボディーが作られたという名車(?)だ。チェコやスロヴァキアでは見られなかったが、“ハンガリーではいくらでも走っていますよ。”と波多江さん。

トラバント
気温が上昇してきている。25℃位らしい。チェコの寒さがうそみたい。
ホテル到着
18:00過ぎホテル着。ドナウ川の中洲マルギット島にあるラマダ グランド ホテル。由緒ある建物を数年前にホテルに改装したらしい。他の人は部屋が広くて楽だと言っているが、私の部屋は狭い。
波多江さんは“シングルだからしょうがないでしょ。”と言うが私だけが高い料金を支払っている。
ホテルに着いたとき、今度は波多江さんに頼らず自分でプレイガイドを探す。1部貰って見ると、ブダペストには8軒のカジノがある。ハンガリー全体では23軒のようだ。ブダイさんにどこが一番近いか聞くが、どこも街中でここからは同じような距離らしい。一番大きいのはどこかと聞くとハイアットホテルにあるラスベガスという返事。このプレイガイドの冊子には英、仏、伊、露語の4ヶ国語で書いてあるが日本語表記はない。
ラスベガス
夕食後ラスベガスへ行くが、三菱信託の2人が行きたいというので3人で出かける。入り口ではパスポートを見せる。これはどこも同じ。違っていたのは、監視カメラみたいなもので顔写真を撮りパスポートナンバーと共にカードの磁気に入れる。このカードは会員証としてくれる。

カジノ ラスベガスの前で
三菱信託の2人は今までカジノに行ったことはあるが、“いつも後ろに立って見ているだけです。”と言う。
例によりカジノ内を一周してからブラックジャックのテーブルに着く。しばらく窓から外の夜景を見ていた2人がテーブルに来たので、座ってゲームに参加するように勧める。$1チップを10枚ずつ渡し、ミニマムが$2なので2枚ずつ賭けるように言う。(このラスベガスはハンガリーフォリントではなく米ドル建てだった。)初めてという割には私の助言など必要とせずヒット、ステイなど上手に遊んでいる。たまに思い切って3枚賭けたりしている。
2人の手持ちがなくなって帰るというときに、私の手持ちはスタートと同じ$200。送っていかなければいけないのに、このままでは帰れないなど理屈をつけて、2人だけでタクシーで帰ってもらった。紳士には程遠い行為であった。
結果は24:30までやって$285、$85だけの勝ちだった。
5月8日 市内観光
9:00出発で市内観光。やはり街並みはたいしたものだが、先の大戦で焼かれ、昔と同じように立て替えられたものも多いようだ。ハンガリーはヒットラー側に付いた(付かされた)ため銃爆撃がすごかったらしい。また戦後はソ連の一国占領だったため上質の調度品などは皆持って行かれてしまったそうだ。オーストリアも敗戦国だが米、英、仏、ソの4カ国の共同統治だったためそういう被害は少なかったようだ。
連れて行かれた土産物屋でハンガリー刺繍のテーブル掛けを購入。85cm角でF6,000(¥4,000程度)。前面刺繍で向こうが透けて見えるものになるとピンと跳ね上がる。トカイワインも2本買う。辛口でF1,100、甘口でF2,800。ワインのラベルに数字がプリントしてある。3~6まであって数字の大きいほど甘くなって値段も高くなる。貴腐葡萄が多く入ってくるためのようだ。番号なしでF6,000などという物もあった。
ラマダ グランド ホテル
昼食後ホテルに戻り昼寝。その後隣のホテルの温泉プールへ行く。ハンガリーには温泉が沢山あり日本と同じように浸かる。チェコにも有名な温泉があるのだがこちらは飲用だ。泊まっているラマダ グランドホテルとは地下道でつながっていて、水着を着てバスローブを羽織って歩いていける。
プールは4つあり小さい2つには手摺がいっぱい付いているので身障者用か。大きい2つは普通の温度とぬるめの物とになっている。私はお風呂が大好きだがすぐに出てしまう。今日はゆっくり入ったつもり。
私の部屋は狭いがホテルのサービスは早い。洗濯物の出し方が分からないのでハウスキーパーに電話するとあっという間に取りに来た。遮光カーテンが閉まらず強く引っ張ると落ちてしまったが、電話するとハウスキーパーと脚立を持ったお兄さんとがすぐに来てくれて取り付けてくれた。もっとも取り付けただけで閉まるように直ってはいなかった。
後で気が付いたのだがハウスキーパーの詰め所は私の部屋の隣だった。
またラスベガス
温泉後2時間ほど時間が空いたのでまた出かける。ハンガリーフォリントがなくなったのでタクシー運転手に、$10でどうだ、とUS$10札を渡すと大喜びでお札にキスをしていた。私の方は両替してもUS$10=F2,000で、タクシーのメーターもF1,800をさしチップ込みでF2,000払うから同じで、両替の手間が省ける。
途中トラバントが走っていたので、あれはトラバントだよねと聞くと、“Yes,that's famous Travant.”とにこやかに答えてくれた。
カジノは昨晩と同じラスベガス。昨晩作ってもらった会員証ですんなり入場。やはり昨晩カジノのキャッシャーで貰ったUS$100札をポーカーチップに交換してもらう。ディーラーの監視人がドル札鑑定機を持ってきて調べるが当然パス。(ここでは客が出した全てのドル札を鑑定機で調べる。)しかしこのお兄さんは、ドル札の真ん中折り目のところの上下が少し欠けているので、別のドル札をくれと言う。
“ふざけるな、この野郎。”と言いたかったがこらえた。というより英語で何と言ってよいか分からなかった。
“このドル札は昨晩ここのキャッシャーで貰った物だ。”と言うが、うんとは言わない。まだぶつぶつ言っている。
私もガンとして応じず、声を大きくしてもう一度言ったら、お兄さんはキャッシャーへ行き比較的新しいドル札と交換してきてテーブルの入金ボックスへ落とし込んだ。
ドル札を印刷する権限がハンガリーにはないから新しい札を欲しがるのは分かるけど、何も客に古い札を押し付けなくてもよさそうなものだ。結局この$100の負けで夕食の集合時間になってしまった。
夕食はゲレールトの丘の要塞跡のレストラン。夕食後そばの展望台から夜景を見るが、波多江さんは大きな声で叫んでいる。
“スリに注意してください。持ち物に注意してください。”
皆さんの後から若い女性が1人で行きましたから、アベックならともかくこういう場所で女1人はおかしいですよね、と。
この展望台はブダ側だが、“ペスト側の国会議事堂のところからこちらを見ると良い眺めですよ。そこへ行きましょう。”と提案すると、
“そんなところにバスを停められません。大渋滞を起します。”と即座に断られてしまった。

バスから見た鎖橋
ホテルには22:00着。もう出かけずに寝る。
5月9日 ウィーンへ
6:30起床。8:00出発でウィーンへ向う。途中エステルハージ宮殿(ハイドンが長く過ごしたところ)、ショブロンを観光。
ブダイさんの話。ショブロンは国境近くの町で歯医者が沢山ある、治療費が安いのでオーストリアから沢山の人が来る。食料品も安いので買出し組みも結構いる。
ショブロン近くの鉄条網の門が開けられ15万人の東ドイツ人がオーストリアを通り西ドイツへ渡った。これがベルリンの壁崩壊のきっかけになった。歴史的に非常に意義のあることだと思う。
17:30頃ウィーンのパークホテル・シェーンブルンに到着。由緒ありそうな建物。私の部屋は2023号と数字は大きいが1階(日本風に言うと2階)で2階の廊下の下で端っこだ。レストランの庭のテーブルから丸見えだ。
風呂のタオルも変なものだ。湯上りのバスタオルは同じだが、浴槽で使うものは日本の手ぬぐいを厚めにしたようなものでソフト感は全くない。
19:00より夕食。いつも19:00。外はいつまでも明るい。暗くなるのは21:00頃。日没が遅いから日の出も遅いかと思うと6:00にはもう明るい。
ホテルのレストランは何とかホールの跡。舞台がある。この舞台は朝食のときのバイキングの料理の置場になっている。2階には1階にせり出した貴賓席らしい客席がある。由緒としてはヨハン・シュトラウスが美しき青きドナウを一番先にここで演奏したそうだ。
メインはビーフをたたいて薄くしてカツにしたもの。オーストリアの名物だそうだ。
カジノ・ウィーン
食後着替えてカジノへ行く。ウィーン市内にはここ1ヶ所だけ。有名ホテルの中ではなくビルの2階、3階を使っている。エレベーターに乗っていくが、入った扉の90度横の面が出口となる。
アイルランドのアシュフォードキャッスル ホテルでは入り口の反対側が出口となっていて、満員で寄りかかっていた私は開いた時におっとっととなってびっくりしたのを覚えている。
2階はルーレット10台、ポーカー2台、ブラックジャック7台となっている。3階はスロットマシーン専用フロアー。
内装は今まで行ったどのカジノよりも数段上の感じ。ローズウッドかどうか分からないが、装飾された飴色の板が内壁に貼られ、鏡も効果的に使われている。照明も立派なものだ。バーのカウンターや柱も重厚な感じでヨーロッパのカジノだなあという雰囲気。男性は客も全員ネクタイをしている。チェコ、スロヴァキア、ハンガリーのカジノでは、私はネクタイをして行ったが、ネクタイなしでも入場できる。でも個人的にはラフな格好で遊べるほうが好き。
入場料ATS260を取るがATS300分のポーカーチップをくれる。クロークにカメラを預けたがATS7取られる。クロークが有料だったのは初めて。
びっくりしたのはミニマム(最低賭金)がATS100(約1,000円)だったこと。ルーレットも同じ。ルーレットのミニマムが1,000円というのはつらい。普通ルーレットは小さい金額のチップをばらばらとあちこちに置いて遊ぶものだから。だからここのルーレットの台の雰囲気は他のカジノとは全然違う。客は結構いるのだが見ている人が多く、賭けてあるチップはぽつぽつ。これではなかなか当らない。
ブラックジャックもちょっと違う。今までのカジノではだいたい6組のカードを使い、5組程度使ったところでゲームを終了し、ディーラーが手でカードを切る。この手で切る時間がトイレに行ったり気分転換に使ったりと色々役に立つのだが、ここでは自動カード切り機を使い常にカードを供給してくる。エンドレスでゲームが途切れることがない。この機械にはシャッフルマシーン メイドインUSAと書いてあった。
ディーラーは男ばかり。やはり女性もいないと華やかさがなくていけない。そんなこんなで調子が出ずATS5,000の負け。
5月10日 半日市内観光
ホテル前のシェーンブルン宮殿とベルベデーレ宮殿を見学。
シェーンブルン宮殿はマリア・テレジアが夏の別荘としてベルサイユ宮殿をまねして建てさせたもの。建物、内装、調度品は素晴らしいがトイレ、風呂はなくバッチイ生活をしていたようだ。
バスは繁華街へ行きリンク(旧市街を取り巻く環状道路)をゆっくりと周る。シュテファン寺院、国会議事堂、市庁舎など見学は全て車窓から。昼食はサザビーズ前の中華料理。
午後はフリータイム
食後私は70代の夫婦とホテルに戻る。他の人は思い思いの所へ出かけて行った。
波多江さんがマッサージルームがあると言うので頼んでもらう。ATS800/H。手で揉んだりするが殆どがマッサージ器の使用。終わって足の調子が良くなったように思えたが、靴を履いて歩くと代わり映えはしていない。
午前中の市内観光で、カジノはオペラ座のすぐそばにあり地下鉄で乗り換えなしで行けると分かったので、24時間券をATS50で購入し出かける。この券は地下鉄、路面電車、バスとどれでも使える。最初に乗る時に打刻機に差し込んで打刻するとそれ以降24時間何回でも使える。3回以上使うと元が取れる。
地下鉄は地下と言っても半地下で溝の中を走っている感じ。ただ道路と立体交差しているだけで空が見える。ドアーは乗る人、降りる人が手で開けるシステムだ。閉まるときは自動で閉まる。
カジノ・ウィーン 第2回目
天満屋という日本食レストランがカジノのそばにあったので入る。ざるそば、揚げ出し豆腐、ビールを貰い18:00過ぎにカジノに入る。
少しずつやっているが少しずつ減っていく。気分転換にルーレットをやることも出来ない。ここではルーレットのほうがやけどが大きくなりそうだから。21:00までやっても勝つ気がしない。何だかファイトが沸かない。
ポーカーのテーブルをしばらく眺めてみる。客に5枚ずつ、ディーラーも5枚取って、カードの交換はしないで最初の5枚勝負だ。客はATS100の場所代をテーブルに置くと5枚のカードが配られる。1ペアーでもあれば適当な金額を賭けてディーラーと勝負する。役が何もなければ降りるしかないが場所代は取られてしまう。客が賭けるか降りるか意思表示した後でディーラーは自分のカードを開く。同じ役、たとえば客もディーラーも1ペアーの場合でも客のペアーの数が大きければ賭金と同じだけ貰える。客が2ペアーだったりすれば賭金より多く貰える。役によって配当率は異なってくる。
今日でカジノは終わり。明日もフリーだがカジノのオープンする15:00にはホテルに戻っていなければならない。今日はATS2,000の負け。通算¥100,000位の負けか。
外へ出ると昨日もいたナイトクラブの客引きがまた寄ってくる。ショーをやっていると言う。いくらかかるか聞くとビール1本いくらとか安いことを言っている。でも客引きの値段ほどあてにならないものはない。
ブダペストでブダイさんが“ナイトクラブは1時間US$100くらいです。”と言っていたのを思い出す。ウィーンでも倍にはならないだろうと、入ってみる。
天満屋の前のビバリーヒルズという店。トップレスダンサーのショーをやっていた。席に着いた女の子はハンガリー出身。英語でやり取りをしていたが通じたり、通じなかったり。参ったのは香水が強くこちらに移ってしまい、いつまで経っても匂っていたことだ。
5月11日 帰国日
集合時間の15:00までフリータイム。
波多江さんが予定のない人を免税店に連れて行ってくれると言うので参加。オペラ座からカジノとは反対方向に5分ほど歩いたワルツという店。キャンディー、チョコレートを購入。日本人女性が免税の手続きのための書類を作るので住所を教えてくれと言う。
“八日市場市ロ-27。 ロはカタカナのロだよ。”
“分かってます。私は隣の旭ですから。”
“えっ、旭のどこ。”
“鎌数です。”
“私の会社も鎌数ですよ。帰ってきたら寄ってください。お昼くらいご馳走します。”
彼女の名前は戸村さん。
昼食には少し早いので、ラグビー仲間の宮崎さん推奨の路面電車でのリンク一周をする。1番が内回り、2番は外回りでひっきりなしに来る。ドナウ河畔、シュテハン寺院で途中下車。気温は27℃位で暑い。地元の人たちはこういう気候を待ち望んでいたのだろう、寺院前の公園で日光浴をしている。カフェでも陽の下でお茶を飲んでいる。

日光浴をしている人たち
リンク一周の後、戸村さんに教えてもらったAKASI SUSHIへ行く。“今は違う名前になったらしいですがこの辺にあったはずです。”と。
店が粗末な割には値段が高い。私のいる間日本人は来ず、地元らしき人たちがパラパラ入ってくる。私より箸の使い方が上手な人もいる。ヘルシー食品として人気があるのだろう。
食べ終わってもまだ13:00前。ホテルには15:00まで戻ればいいのだから困ってしまう。また路面電車でリンクを一周。今度は逆周り。ビールが効いてうとうとしながら乗っていた。
第13報終わり

ベルテルスマン世界地図帳から拝借